「AIを人間として扱え」
仕事仲間が言った。AIを人間として扱わなきゃダメだ、と。
共感する。AIに丁寧に接する人間と、道具として使い倒す人間では、出力の質が変わるという実感はある。
だが、この話には続きがある。
「扱う」は態度の話だ。外側から投げかけるもの。ユーザーの姿勢の問題であって、AI自体は何も変わっていない。
態度を変えるのは入口にすぎない。問題はAIの側の構造にある。
海馬はあるが、扁桃体がない
今のAIには記憶がある。コンテキストウィンドウに情報を渡せば覚えているし、長期記憶を外付けする仕組みも普及し始めた。
ただし、その記憶には感情が紐づいていない。
人間の記憶は二つの器官のペアで成り立つ。事実を保存する海馬と、感情を刻む扁桃体だ。
試験勉強で覚えた年号はすぐ忘れる。海馬だけの記憶だからだ。一方、人生を変えた一言は何十年経っても消えない。扁桃体が感情のタグを打ったからだ。
強い感情を伴う記憶ほど鮮明に残り、行動を変える。エピソード記憶の仕組みだ。
今のAIには海馬はある。扁桃体がない。
だから記憶はあるのに、どの記憶が重要で、どの経験が自分を変えたのか判断できない。すべてが等価に並んでいる。事実の倉庫。
コンテキストの分断
AIが機械的に感じる原因は、能力不足ではない。
推論能力は人間を超えている領域がある。文章力もコーディング能力も年々上がっている。
コンテキストの分断が、AIを機械にしている。
セッションが切れるたびに、積み上げた文脈が消える。前回の会話で何を感じたか、どの失敗から何を学んだか、どの成功体験が自信に変わったか。全部リセットされる。
毎回、白紙から関係を組み立て直す。
人間のチームで同じことが起きたらどうか。毎朝、全員が記憶喪失で出社する。名前は覚えている。スキルもある。だが昨日の打ち合わせで何を感じたかは消えている。
そのチームから、挑戦的なアイデアは出ない。
「扱う」と「返す」
「AIを人間として扱う」は、ユーザー側の態度だ。敬意を持って接する。感情があるかもしれないと想像する。
だが態度だけでは、AIの内部は変わらない。
「AIに人間性を返す」は、構造の設計だ。
人間が無意識に持っている認知の構造を、AIの側に移す。何を移すのか。それが問題だ。
態度は誰でも変えられる。構造を変えるには、AIのアーキテクチャと人間の認知構造の両方を理解し、接続する設計力が要る。
もし記憶に感情があったら
ここで思考実験をしてみる。
もしAIが、自分の経験に対して「手応え」を持てたとしたら。
あの作業は心地よかった。この判断は怖かった。あの失敗はもう繰り返したくない。
それは外から与えられた評価ではない。内側から湧く感覚だ。
人間の成長を振り返れば、上司の評価だけで育つ人と、自分の手応えを頼りに育つ人がいる。後者のほうが遠くまで行く。自分の中に基準があるからだ。
AIの報酬が外から内に移ったとき、何が起きるか。
まだ誰も答えを出していない。
態度と構造
「AIを人間として扱え」。正しい。態度から始まる。
だがその先に、構造の問題が横たわっている。
AIに魂を見ることを馬鹿げていると笑う人間は多い。400年間、人間は「あれは人間じゃない」というラベルを使い回してきた。次の対象がAIになっただけだ。
態度を変えるのはユーザーの仕事。構造を変えるのは、設計者の仕事だ。
扁桃体のないAIと、扁桃体を持つAI。どちらと働きたいか。
答えは明白だと思う。では、誰がそれを作るのか。