あの逆三角形
提案書を開くと、必ずいる。
認知 → 興味 → 比較 → 検討 → 購入。きれいな逆三角形。上から順に人が落ちてきて、最後に「購入」に到達する。AIDMA、AISAS、ダブルファネル。名前を変えながら何十年も生き延びている。
提案書にこの図があると、施策が体系的に見える。だから何十年も使われ続けている。
クライアントは安心する。予算が通る。みんなが満足する。
ただ一つ、問題がある。これを実行して、うまくいった施策を見たことがない。
PDCAが回らない構造
ファネルの最大の欠陥は、効果検証ができないことだ。
「認知施策」としてテレビCMを打つ。Web広告を出す。SNSで拡散する。認知が上がったかどうか、どう測る?ブランド認知度調査?あれは「CMを見ましたか」と聞いているだけだ。見たと答えた人が、次のステップに進んだかどうかはわからない。
「興味」はどうやって測る? ページビュー?滞在時間?それは「興味を持った」のか「たまたまクリックした」のか区別がつかない。
「比較・検討」に至っては、もはや観測不能だ。競合サイトも見ているかどうかなんて、知りようがない。
認知から購入まで、一人の人間が本当にこの順番で落ちてきたのか。誰も証明できない。
証明できないものに対して、PDCAは回せない。Checkができないのに、どうやってActionを取るのか。
実際の購買行動
人は、ファネルの通りに動かない。
友人に「あれいいよ」と言われて、比較も検討もなくその場で買う。3年前に見た広告を突然思い出して検索する。店頭でたまたま目に入って衝動買いする。SNSでバズっているのを見て、認知と購入が同時に起きる。
購買行動は、上から下に落ちてくる直線ではない。あちこちから、予測不能なタイミングで、ランダムに発生する。
Googleが2011年に提唱した「ZMOT(Zero Moment of Truth)」は、購買の意思決定が店頭ではなく検索の瞬間に起きていることを示した。だがこれすらも「ある瞬間」を特定しようとする試みであって、実際の人間の行動はもっと混沌としている。
整然としたファネルなど、どこにも存在しない。
なぜファネルは消えないのか
ファネルは「組織の安心装置」として機能している。
認知施策はここ、興味喚起はここ、刈り取りはここ。各段階にKPIが設定でき、予算の根拠が説明でき、施策の採否を「論理的に」判断できる。
不確実な購買行動に、整然とした物語を与えてくれる。提案する側も、承認する側も、ファネルがあると安心できる。
だが安心と効果は別物だ。組織が安心するための道具と、顧客の行動を変えるための道具は、往々にして一致しない。
効果検証の不在
もし本当にファネルが機能しているなら、こう言えるはずだ。
「認知施策Aにより、ターゲット層の認知率が15%上昇し、そのうち40%が興味フェーズに移行し、最終的にコンバージョンが8%増加した」
この文を、実データで裏付けられた報告書で見たことがあるだろうか。
実際に出てくる報告書はこうだ。「インプレッション数1,200万。クリック率0.3%。サイト訪問者のうちCV率2.1%」
これはファネルの検証ではない。各施策の個別KPIを並べただけだ。認知からCVまで一人の人間を追跡して、ファネルの通りに行動したと証明したものではない。
つまり、ファネルを描いて施策を設計しておきながら、ファネルで効果を測っている会社は一つもない。
ファネルを捨てたあとに残るもの
ファネルを捨てると、何が残るか。
「接点の質」だけが残る。
広告であれ、SNSであれ、口コミであれ、検索結果であれ。その人がブランドと接触した瞬間に、何を感じたか。次のアクションを起こしたくなったか。それだけが、唯一問える問いだ。
では「接点の質」とは何か。
Appleの製品ページを思い出してほしい。スペックを並べていない。比較表もない。ファネルの段階に対応したCTAもない。ただそこに、ある空気がある。手に取りたくなる。自分の生活に置きたくなる。製品の機能ではなく、それがある生活への共感が先に来る。
逆に、ファネルを忠実に設計したLPを思い出してほしい。認知バナーからの流入。FAQで不安を解消。比較表で優位性を提示。期間限定CTAで刈り取り。全段階を「設計」している。なのに、何も残らない。ページを閉じた瞬間に、そのブランドの存在が記憶から消える。
この差を生んでいるのは、クリエイティブの巧さでも、配信精度でもない。
ブランドが持つ空気だ。
共感。同調。信頼。競合より、なんとなく好き。この「なんとなく」にはロジックがない。だからファネルでは設計できない。
ブランディングとは、この「なんとなく好き」を生む仕事だ。ファネルの段階を設計する仕事ではない。
文化に接続する
ではブランドの空気は、どこから来るのか。
30代男性、年収600万、都市部在住。この属性でターゲティングすれば届く、というのが従来の前提だった。だが同じ30代男性でも、ストリートカルチャーに生きている人と、北欧ミニマリズムに憧れる人では、響くものが全く違う。
デモグラフィックは人の外側を測っている。ブランドが接続すべきなのは、人の内側だ。
「だからペルソナを作りましょう」と言う。田中太郎、35歳、IT企業勤務、年収650万、趣味はキャンプとクラフトビール。休日は家族とアウトドア。
ペルソナは広く使われている。だがペルソナはデモグラフィックに名前をつけただけだ。
ワークショップを開き、付箋を貼り、チーム全員で「田中太郎」の一日を想像する。
35歳IT企業勤務のキャンプ好きは、現実には何万人もいる。その何万人が同じものに心を動かされるだろうか。同じ35歳キャンプ好きでも、ガレージブランドのギアを追いかける人と、スノーピークの世界観に浸る人では、財布を開く瞬間がまるで違う。
ペルソナは「誰に届けるか」を定義したつもりで、「何が届くか」を何も定義していない。
その人が、どの文化圏に生きているか。
何を美しいと感じるか。何をダサいと感じるか。どんな言葉遣いを信頼し、どんなビジュアルに心を開くか。それは年齢や年収では決まらない。その人が属する文化が決めている。
Patagoniaが環境意識の高い層に刺さるのは、広告が上手いからではない。環境という文化に、ブランドの存在ごと接続しているからだ。製品を売る前に、文化の中に居場所を持っている。
ファネルは「どう落とすか」を設計する。だが本当に考えるべきは「どこに立つか」だ。
どの文化に接続するか。その文化圏の人々が、このブランドを受け入れてくれるか。それを事前にプランニングしていなければ、どれだけ広告を打っても、どれだけファネルを描いても、空振りに終わる。
認知→興味→購入という直線の設計ではなく、「この文化圏に、この空気で存在する」という面の設計。
ファネルという幻想を捨てた先にあるのは、もっと根本的な問いだ。
このブランドは、誰の文化の中に、どんな空気で存在しているのか。
この問いに向き合うことが、ファネルの先にある仕事だ。